気づいたら10年打ち込んでいた元スケーターの備忘録

元大学生フィギュアスケーターが10年間のスケート人生を通じて感じたことを、当事者ならではの視点から書いたり、そんな私の感性に刺さったモノを紹介します。

先生との「信頼関係」はスケート人生を光り輝かせる

 前回の記事でも触れましたが、

私は自分の先生だったからこそスケートを続けてこられたと実感しています。

 

もちろん、先生に対して今まで1ミリも不満を抱いたことがない

というわけではありませんし、

同じ先生にずっと師事するデメリットもなくはないかと思います。

 

そういったことを加味しても、やはり、

相性がよい先生と出会えたことが幸運だったなぁとつくづく感じ、

自分の先生と信頼関係を築く、自分の先生を信頼できる、というのは

当たり前のようですが、大事なことだと改めて思うのです。

 

 今回は、私のスケート人生におけるいくつかのターニングポイントとも言える

先生からもらった言葉を紹介した上で

引退までの最後の1年間に経験した、先生との印象的な場面を記したいと思います。

 

 

心に刻まれた先生からの言葉 

1.「先生はリンクで待ってるから、いつでも帰っておいで。」

これは、怪我をして2か月ほどリンクを離れる決断をしたときに

先生からもらった言葉です。

 

高校生の頃に右足に怪我をして、約2か月全く氷にのらなかった時期がありました。

当時の私は、毎日練習をしていました。

中学から本格的にスケートを始め、

だんだんできるようになることが増え、今振り返ると自分でも驚くくらい

スケートにのめり込んでいた時期でした。

 

怪我が発覚し、最初は練習時間を減らし治療をしていましたが、

やはり完治させるためには一定期間練習はしない方がよい、となったのです。

 

たとえ完治しても、いつまた再発するかわからない。

以前のように、思いっきりスケートができるかわからない。

 

これからもっと練習して、新しい技を習得して、試合で成功させて...と

思っていたときに

突然、そのスケートができなくなるかもしれない、という現実がやってきたのでした。

 

まさに「絶望」でした。

未だにそれを超える絶望は感じたことがないくらい、

当時の私は奈落の底に突き落とされたようでした。

 

もしスケートができなくなったら

私はこの先何に向かって生きていったらよいのだろう。

この先、スケート以外でこんなに夢中になれるものに出合えるのだろうか。

という気持ちに襲われ、どうすることもできず苦しみました。

 

そして、先生に「2か月休みます」という連絡をし、返ってきたのが

「先生はリンクで待ってるから、いつでも帰っておいで。」

 

それを見た瞬間、涙が溢れました。

 氷の上に戻れないかもしれないという恐怖でいっぱいだった私を

先生からのその言葉が解放してくれました。

 

再発するかどうかなんて誰にもわからないし、

「時間がかかっても戻れる場所があるんだ」という安心感がとても救いになり、

ちゃんと完治させてリンクへ戻ろうと思えたのでした。

 

 

2.「ちょっとでもやりたい気持ちがあるなら、やってみたら。」

 私は先生からのこの言葉で、大学でもスケートを続けることを決意しました。

 

高校3年の春の試合を区切りにして

大学受験に向けて専念するために約1年スケートから離れました。

そのときは、大学に入ってからもスケートをするかどうか決めていませんでした。

 

区切りとした試合に、そのときの自分にできる一番難易度の高い構成のプログラムで

挑むことができ、その試合の直後には目標としていた級の取得もできたので、

一旦「やりきった感」を感じていたためか、

「絶対大学でもスケートをやるんだ!」という気持ちはありませんでした。

大学で新しいことを始めるのもいいかなーとぼんやり思っていたくらいです。

 

そして大学受験が終わり、先生に報告しに久しぶりにリンクへ行きました。 

そこでも、スケートはどうしようかまだ迷っている、という話をしたところ、

「ちょっとでもやりたい気持ちがあるなら、やってみたら。」

と言われました。

 

確かに、リンクから離れた期間はテレビで試合を見ていると

やっぱり、滑りたいなーと思っていました。 

先生と話したときにまだ迷っていた、ということは

まだどこかでやりたい気持ちがあったのだと思います。

 

そんなときの先生からの言葉で、

前向きに自然と「やってみようかな」と思えたので、続ける決心をしたのです。

 

先生からすると、生徒が多い方が収入も増えるので

その言葉を放った部分も1ミリくらいはあるかもしれませんが。笑

 

 

3.「練習を増やしたからといって、インカレに行けるとは限らない。でも、後悔しないようにしなさい。
最後に、ここまでスケートをやってきたよかった、と思えるようにしなさい。」

これは大学時代の後半、インカレ(大学生の全日本選手権のようなもの)の

予選の試合が数か月先に迫ったとき、もらった言葉です。

 

大学生活の折り返し地点を超え、スケートの引退もいよいよ迫ってきた頃でした。

ということは、当然学生生活というものも残り少ない時間です。

 

大学に入ってからの私は

大学の勉強や就職活動などスケート以外にも興味が広がり、

中高時代と比較すると、スケートにかける時間は減らしていました。

 

そして学生生活も終わりが見え、何にどれだけ注力するか、改めて考えていました。

そのことを先生に相談したときに言われたのです。

 

「練習時間を増やしてもインカレに行けるとは限らない。

でも、もし行けなかったときにどっちが後悔する?

できるだけのことは全部やって練習した結果行けなかったのと、

もうちょっと練習しておけばよかった、と思うのと。

あなたがどうふうにスケートをしても構わないけど、

最後引退するときに、ここまで続けてきてよかった、と思えるようにしなさい」と。

 

この言葉をよく考え、私は前者を選びました。

この先の長い人生で、全力でスケートができるのは、あとほんの少し。

社会人になってから趣味でスケートを続けたとしても、

ジャンプをバンバン跳んで試合に出る、なんてことはできなくなります。

 

そう考えると、「もう一度全力でスケートをしてみよう」と思えたのです。

と同時に「全力を尽くしたら今の自分はどこまでいけるのだろう」と思ったのです。

 

それまでの私を見てきたからこそ、先生はこの言葉をかけてくれたのだと思います。

後悔しないように、自分で考えて納得してスケートをしなさい、と。

 

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これらの言葉は、今でも私の心に深く深く刻まれています。

こんなことを経て、大学4年時、引退までの最後の1年

そして引退のときをどう先生と迎えたのか。ここから書いていきます。

 

 輝きを増した引退までの最後の一年

1.最後のインカレ:先生と挑む全力投球の最後の試合

 

 実質的な最後の試合はインカレではありませんでしたが、

そこを目指してやってきた部分もあり、

多くの大学生スケーターにとってインカレは特別な舞台であり、

私も気持ちの上では、最後だと思い臨みました。

そして、大学4年時のインカレは最初で最後の、先生と臨んだインカレでもありました。今までは、会場が遠かったので先生は呼んでいなかったのです。

 

私の先生は、普段から感情的になることは少なく、

試合のときもリンクサイドで冷静に立ち、見守ってくれている印象でした。

 

そんな先生が、最後のインカレのときに私の演技の最中、

技が成功すると手を叩いて、ときには体を動かしながら見守ってくれていたのです。

 

これはあとから試合の時の映像を見て気づいたことだったのですが、

その先生の姿は心に迫るものがありました。

いつもは技が成功しても、

手を1.2回叩いて冷静に「はい、次」という感じだったのですが、

このときは強く何回も手を叩き「よし!!」という感じだったのです。

 

先生も先生なりに、この試合の特別感など、

何か感じるものがあってくれてたのだろうと思うと心が熱くなりました。

 

 

2.最後の貸切:最後のクラブの貸切練習を終えて

 

私はずっと地域のクラブに入り、スケートをしてきました。

クラブに入ると

一般の方が滑る時間以外にクラブ員だけが滑れる貸切の練習があり

たくさん練習できるようになります。

 

この貸切の練習のときは基本的にいつも先生がいて

ジャンプやプログラムの曲かけを中心に練習し、

先生からの指導を受けることも多かったです。

クラブに所属している選手たちは、この貸切の練習を積み上げて

試合に臨んだり、級の取得を目指します。

 

そう考え振り返ってみると

この「貸切」には、私がここに至るまでのプロセスがぎっしり詰まっていて、

血と汗と涙を流してきた日常の軌跡は

特別な意味合いを持つようになっていたのです。

 

何度転んでも立ち上がってジャンプを跳び、

やってもやってもできないことが嫌になり、

ときには先生からのアドバイスに不機嫌そうな顔をしたり、

きれいに技が成功すると「今のよかったよ、今の感じで」と先生から言われたり。

 

何百回、何千回という貸切を積み上げてきたからこそ、

試合のときのたくさんの大きな喜びや悲しみがあったのです。

そして、その道のりは私一人ではなく、先生と歩んできたものでもあります。

 

そんな「貸切」もついに最後を迎えます。

いつものようにリンクサイドにあがると、

クラブの後輩が花束と色紙を抱えて待ってくれていて、

それに気づいた瞬間、私の涙腺は崩壊していました。

 

それらを受け取り、先生のもとへ行き、何か少し言葉を交わしました。

そのとき、先生の目に涙が光っているように見えたのです。

私はこのとき、先生の涙を初めて見たような気がしました。

その時の先生の表情が、ここまでの道のりを物語っているようでした。

 

 

3.本当の「引退」:フィギュアスケートの競技生活からの卒業

 

幸運なことに、最後の試合のあとに

本当の最後として人前で滑る機会をいただきました。

 

その本番も終え、リンクを出て帰る前に先生に挨拶をしました。

そこでもまた、先生の涙が見えた気がしました。

これを境に、フィギュアスケートから離れ、スケートリンクにもほぼ来なくなります。

 

2.3.と先生と具体的にどんな言葉を交わしたかはあまり覚えていませんが、

言葉では表現できないものをしっかり感じました。

 

「お疲れ様」なのか

「よく頑張ったね」なのか

「ちょっと寂しくなるなぁ」なのか

「これからの人生もしっかり生きていきなさい」なのか。

 

こんなようなことを、先生のその姿から、表情からしっかり感じたのです。

アイコンタクトで会話をしたような、そんな感覚でした。

 

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自分の人生の中で

自分の良い状態も悪い状態も含めて

自分のあらゆる面を深く知っている人というのは

意外と稀有な存在なのではないかと思います。

 

どんなに親しい友人でも、楽しい時間は一緒にたくさん過ごしても、

悩んでいたり、どん底まで落ち込んでいる時間も同じように共有してきたという人は

何人いるでしょうか。

 

まして、ちょっとしたことで気分がジェットコースターのように浮き沈みしたり、

自分のアイデンティティを探っているような、

自分含め環境も大きく変化する、10代~20代の「自分」を知っている人は

どれだけいるでしょうか。

 

フィギュアスケート と出合った私は、同時に「先生」とも出会い、

ほかの人との人間関係と比較できないような

強い「信頼関係」を築くという経験もしてきたのでした。

 

決して目に見えませんが、先生とのそんな「信頼関係」があったからこそ、

最後の一年に見た先生との光景、先生の姿は、

これまでに見たことがない輝きを放っていたと思うのです。

 

前回と今回の先生シリーズは、ほとんどの内容が個人的な話になりましたが、

一個人のストーリーを通して、フィギュアスケートの奥深さや魅力などを

感じたり、考えるきっかけになれば嬉しいです。